舞台としての主体

「たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。」
上記は宮澤賢治が保阪嘉内へ宛てた書簡の一節です。宮澤賢治はみずからの詩を「心像スケッチ」と名付けていますが、この一節は、賢治にとって、みずからの身体は心像、つまりどこからともなくイメージが現れる舞台にすぎない、ということを示しているのでしょう。
この賢治のあり方は、主体というもののあり方を考えさせます。現代において、主体というのは、自分の人生の主人公のように捉えられています。自分がどのように社会とうまく関わるか、どのように他者を自分の希望どおりに動かすか、どのように自分の利益を最大にするか、どこで妥協をするか、などなど。ただ、当たり前ですが、いつでも物事が都合よく進むわけではありません。その場合には、自分の力のなさに歯噛みしたり、他者を恨んだり、身の不幸を嘆いたりすることもあるかもしれません。
こうしたことから抜け出す場合には、賢治のような「自分を舞台としてとらえる」あり方は参考になるかもしれません。
精神病理学の大家である木村敏先生は、日本語にある「中動態」というものに注目しています。これはたとえば、能動態の「見る」や「聞く」という動詞に対して、「見える」「聞こえる」といった語法です。自分を舞台としてとらえる語法であるといえるでしょう。こうした中動態というのは、主客をはっきりさせる西洋語にはないそうです。こうしたことから考えると、日本人にとって、自分を舞台とみなすあり方は、むしろ自然なのかもしれません。