こころの在処

「心理学」という言葉は、明治時代初期の西周(にしあまね)という思想家が、「哲学」や「概念」という言葉と共に、西洋の言語から日本語へ訳出したのがはじまりだそうです。でも、もともとこの「心理学」という言葉は、「mental philosophy」の訳語だったようで、それがいつの間にか「psychology」の訳にも当てられるようになったそうです。psyheというのは「soul」、「魂」を表す言葉ですから、「psychology」は本当は魂の学問なのだろうと思います。

「心はどこにあるか?」という問いに対する、現代の一般的な答えは、「脳」ということになります。では「魂はどこにあるか?」だと、どうでしょうか。そもそも「魂」などと、現代で問題になることなどほとんどないのですが、まあそれでもあえて言えば、胸のうち、といったところでしょうか。でも、身体の内側に魂がある、という感覚も、比較的最近になって起こってきたもののようです。

たとえば、自分の持ち物、箸とか茶碗とか、よく使うものに、自分の魂が宿っている。この感覚って、言われてみれば日本人であればわかると思います。この「言われてみれば」という但し書きがつくのは、我々が現代人になってしまったからで、一昔前までは、魂が外にある、というのは割と当然のことだったのかもしれません。「源氏物語」で、六条御息所が生霊となって現れますが、あれは現代だったら超常現象ですが、物語の中ではわりと普通のこととして登場人物たちに受け入れられています。やっぱり当時は、魂は外にあったんでしょう。

それが、西洋的な個人主義が入ってきて、魂というのは自分の身体の中に入っているものだ、という感覚がいわば常識になってきた。西洋人はそれでも「soul」と「mind」の区別はつくのかもしれませんが、日本人にとっては、魂が身体の内側にあるとなると、それは「心」と区別できなくなって、「psychology」が心理学になったのかもしれませんね。

 

ところで、現代の感覚では、「心は脳にある」と述べましたが、どうも最近は脳科学のほうでも、脳を、個人の頭の中にある単体の脳だけで完結するものと捉えるのではなく、外の世界を含めて捉えようとしているようです。閉鎖系の脳ではなく、開放系の脳です。もちろん外の世界と直接ニューロンで交流しているわけではないですが、外の世界ともネットワークでつながっていると捉えて、外の世界も含めた脳のようなものを想定しているわけです。もちろんそれは、境界もはっきりしないし、実体のないものですが、ある意味でこれは、魂が外にある、といってもいい事態のように思えます。

 

心理学でも、以前は「内省」というものが重視されていました。対象としての自分を、主観としての自分が見つめる、というものです。これはこれでいまでも重要な意味をもっているのですが、時代とともに、もっと外にあるものも重視されるようになっています。たとえば精神分析では「転移」というものが重視されるのですが、これは分析家との関係性といったようなもので、いってみれば、この関係性こそが心だ、とみなしているわけです。とくに最近では、もっと大きな枠組みで心や魂を捉えるようになっていて、心や魂のありかは、個人の内側だけに限定されなくなってきました。これは前述の脳科学の発展と軌を一にしているのでしょう。